畢竟依(ひっきょうえ)を帰命(きみょう)せよ
畢竟依(ひっきょうえ)を帰命(きみょう)せよ
浄土真宗の開祖、親鸞の言葉です。
畢竟依とは、究極の拠り所、という意味です。
帰命とは、身命を懸けて依ることで、南無と同義です。
本当に信ずるべき究極の拠り所を根拠に生きなさいという意味になります。
私の実家は浄土真宗です。私は信心深い方ではありませんが、
檀家になっている寺の和尚は(珍しく?)熱心な方です。
法事の際に語る説法は毎度面白く、中でも印象に残っている話があります。
――――人は生きている間に様々な物に執着している。
それはお金とか、車や高級品のような物質的なものだったり、
地位や名誉、知識や体験であったりする。
我々はそれらを手に入れようともがき、時には争い、
手に入らないことにいら立ったり絶望したりする。
なぜそんなことになるのか。
それは我々が執着する物事が、時や状況の中で変化していくものだからである。
全ての物事は何れは消えてしまうものだ。求めても虚しいだけである――――
では何を拠り所にして生きたらよいのか?
親鸞はそれを阿弥陀仏であると説いています。
阿弥陀仏だけは万物が流転しても変わらずに
正しい在り方だけを示し続けていると説いているのです。
それが表題「畢竟依を帰命せよ」であり、
普段耳にしている言葉「南無阿弥陀仏」の意味であるというわけです。
なるほど。ナンマイダーと手を合わせる動作にも
ずいぶんと深い意味があるものだと感心させられたのでした。
しかし正直申し上げて私は宗教に無関心です。
阿弥陀仏を心の拠り所に生きるなど出来そうもありません。
ただ、私なりに「畢竟依」と思うものがあります。
それは人とのつながり、絆です。
人間ある程度生きていれば辛いとき、苦しいときが必ずあります。
それでも今生きているということは、一人で乗り越えたからではありません。
力になってくれた誰かがいたからだと私は思っています。
2011年3月11日、たくさんの悲劇が生まれました。
その2011年を象徴する一字となったのが「絆」。
絶望の淵にあって一筋の光となるのは「絆」において他に無いということなのでしょう。
私は遺品整理人として数々の寂しい死の現場を見てきました。孤独死の現場です。
住宅街の一室で一人、誰にも気づかれずに息絶え風化してしまった様は、
筆舌に尽くしがたい悲壮感が漂います。
絆が切れてしまったのです。
思うに、切欠は些細なものなのです。ちょっとしたすれ違いであったり、
見栄であったり、時には気遣いであったりするのでしょう。
やりきれなさに駆られ、また他人事とも思えないのは「絆」の大切さを思い知らされるからです。
「絆」を疎かにしては、明日は我が身であると。
畢竟依を帰命せよ。不信心にして親鸞とは解釈が違いますが、良い言葉です。